LOGIN自宅マンションの前に、見慣れない車が何台も停まっていた。
凛花を乗せたタクシーが速度を落とした瞬間、歩道に集まっていた人々が一斉に振り返る。
カメラを抱えた男が、こちらを指さした。
「白峰凛花だ!」
その声を合図に、数十人の報道陣が車へ殺到した。
窓ガラスの向こうで、無数のフラッシュが弾ける。
運転手が怯えた顔でバックミラーを見た。
「お客さん、これ……正面からは無理ですよ」
「構いません。玄関につけてください」
「でも、危ないんじゃ……」
「お願いします」
凛花が繰り返すと、運転手は渋々車を進めた。
車体が報道陣の群れへ近づく。警備員たちが慌てて駆け寄り、通路を作ろうとするが、押し寄せる人数に追いついていない。
凛花は一度だけ息を整え、ドアを開けた。
「白峰さん!」
「天音真白さんが、長期間にわたって嫌がらせを受けていたと発表しました!」
「暴力を認めて謝罪するおつもりはありませんか!」
「違法薬物の入手先はどこですか!」
「交際相手とされる既婚の映画監督とは、いつから関係があったんですか!」
「真白さんが自殺を考えるほど追い込まれていたことについて、どう思われますか!」
マイクが頬へ触れそうな距離まで突き出される。
誰も凛花の答えを求めてはいなかった。
彼らが欲しがっているのは謝罪か、逆上か、泣き崩れる姿だ。
何を口にしても、その一部分だけを切り取られる。沈黙すれば反省していないと書かれ、否定すれば被害者をさらに傷つけたと報じられる。
凛花は何も答えなかった。
警備員に守られながら正面玄関へ向かう。背後では記者たちがなおも叫び、ガラス扉を叩いていた。
ロビーへ入っても、フラッシュの光は背中を追い続けた。
エレベーターに乗り込み、扉が閉まる。
ようやく静かになった。
鏡に映る自分の顔は、朝よりもひどく疲れて見えた。
けれど、泣くことはできなかった。
ここで崩れたら、本当に何も残らなくなる気がした。
自宅のある階へ到着する。
扉が開いた瞬間、鼻を刺すような塗料の臭いがした。
廊下の白い壁に、赤い文字が殴り書きされている。
――人殺し。
その隣には、さらに大きな文字があった。
――消えろ。
――二度と演じるな。
赤い塗料は完全には乾いていない。粘り気のある雫が壁を伝い、血のように床へ落ちていた。
凛花は足を止めた。
角部屋である自宅の玄関まで、悪意に導かれるように赤い線が続いている。
鍵穴の周囲には、工具で無理やりこじ開けたような傷がついていた。
凛花は震える手で鍵を差し込んだ。
抵抗なく回る。
扉を開けると、荒らされた室内が目に入った。
廊下には衣類が散らばり、リビングの引き出しはすべて開け放たれている。棚から落とされた台本が床を覆い、ページの一部が靴で踏みにじられていた。
受賞式で身につけた高価なネックレスも、海外ブランドから贈られた腕時計も残されている。
金目のものを盗むためではない。
凛花は仕事部屋へ駆け込んだ。
机の上に置いてあったノートパソコンが消えている。
引き出しの奥に保管していた外付け記憶装置もなかった。
過去数年間の仕事用データ。
出演契約に関する資料。
打ち合わせの記録。
自分自身で書き込んだ演技ノート。
すべて、そこに保存していた。
凛花は床に膝をつき、散乱した書類をかき分けた。
「どうして……」
偶然ではない。
犯人は最初から、何を持ち去るべきか知っていた。
通報から三十分ほどで、二人の警察官が到着した。
室内を確認し、玄関の傷や壁の落書きを撮影する。だが、警察官の口から出てくる言葉は、凛花が期待していたものとは違っていた。
「現時点では、犯人を特定できる証拠がほとんどありません」
「廊下に防犯カメラがあります」
凛花が答えると、年長の警察官は困ったように眉を寄せた。
「管理会社にも確認しました。ですが、そのカメラは昨夜から故障していたそうです」
「昨夜から?」
「はい。記録が残っていません。玄関からも、照合に使えるような明確な指紋は検出できない可能性が高いです」
「持っていかれたものは、仕事のデータだけです。犯人は場所を知っていました」
「身近な人間に心当たりは?」
凛花は答えられなかった。
昨日までなら、事務所の人間、共演者、スタッフ、出入りしている家事代行業者――思い当たる人間はいくらでもいた。
だが今は、その全員を疑わなければならない。
警察官が帰った後、凛花は芸能事務所から独立して活動する弁護士へ電話をかけた。
芸能人の名誉毀損や契約問題を専門に扱う弁護士だった。
事情を一通り説明すると、相手は慎重な口調で言った。
『週刊誌への差し止め請求、各企業との違約金交渉、刑事告訴の準備を同時に進める必要があります。すでに報道が広がりすぎていますから、相当な人員が必要です』
「お願いします。費用はいくらでも――」
提示された着手金を聞き、凛花は言葉を失った。
払えない金額ではなかった。
少なくとも、昨日までの凛花なら。
通話を切らないまま、銀行のアプリを開く。
画面には、取引が制限されているという表示が出ていた。
『複数の企業が、違約金請求に伴う資産の仮差し押さえを申請しています。口座だけでなく、不動産や有価証券も対象となる可能性があります』
「でも、まだ疑惑が出ただけです。何も確定していないのに」
『残念ですが、今は事実関係より先に契約違反の有無が争われています』
弁護士の声は淡々としていた。
『まずはご親族か、信頼できる方に資金援助を頼むことはできますか』
凛花は答えなかった。
頼める相手など、思い浮かばなかった。
別の着信が入った。
マンションの管理会社からだった。
『白峰様。非常に申し上げにくいのですが、今後のご入居について一度ご相談させていただきたく……』
「私に出ていけということですか」
『強制的な退去をお願いしているわけではありません。ただ、ほかの入居者様から不安の声が多数寄せられております。報道関係者がエントランスを塞ぎ、不審者が建物内へ侵入した可能性もありますので』
「侵入されたのは私の部屋です」
『承知しております。しかし、住民の皆様の安全も考慮しなければなりません』
被害を受けたはずの自分が、危険を持ち込んだ人間として扱われている。
凛花は反論する気力を失い、電話を切った。
直後、非通知の着信が入った。
しばらく画面を見つめてから、通話ボタンを押す。
「もしもし」
返事はなかった。
かすかな機械音の向こうから、誰かの呼吸だけが聞こえる。
凛花はスマートフォンの録音機能を起動した。
「誰ですか」
低い男の声がした。
『余計なことを話すな』
「誰?」
『女優を辞めれば、命までは取らない』
ぞっとするほど平坦な声だった。
脅しているというより、決定事項を伝えているように聞こえた。
凛花はスマートフォンを強く握った。
「あなたが真白ちゃんに何かしたの?」
一瞬、沈黙が落ちる。
それから電話は切れた。
凛花はすぐに録音を確認した。
しかし、保存されているはずの音声がない。
着信履歴にも、非通知の通話を受けた記録そのものが残っていなかった。
誰かが自分を見ている。
そして、どこへ助けを求めるかまで把握している。
凛花は最低限の衣類と現金、身分証明書をバッグへ詰めた。
この部屋にはいられない。
夕方、裏口からマンションを出た。
大通りでタクシーを拾い、後部座席へ身を沈める。
走り出して間もなく、黒いセダンが後方からついてくることに気づいた。
「次の交差点を右へ曲がってください」
急な指示に、運転手が怪訝そうな顔をする。それでも言われた通りに右折した。
黒い車も曲がった。
凛花は駅前でタクシーを降り、人混みを抜けて別の車へ乗り換えた。
それでも黒い車は、離れた場所を走っていた。
二度、三度と車を替えた。
最後には人通りの多い繁華街で降り、傘を差す人々の間へ紛れ込んだ。
黒い車は見えなくなった。
だが、安心はできなかった。
近くのホテルへ入り、空室を尋ねる。
受付の女性は端末を操作した後、凛花の顔に気づいた。
表情が明らかにこわばる。
「申し訳ございません。本日はご案内できません」
「空室があると表示されています」
「ほかのお客様や報道関係者との混乱を避けるため、支配人の判断で……」
最後まで聞かず、凛花はホテルを出た。
かつて自分へ近づき、何度でも食事に誘ってきた芸能関係者へ電話をかける。
誰も出なかった。
友人だと思っていた女優へメッセージを送ると、数分後に短い返信が届いた。
『ごめんね。家族に迷惑がかかるから、もう連絡しないで』
それだけだった。
雨が降り始めた。
最初は細い雨だったものが、やがて街の光を滲ませるほど強くなる。
凛花は閉店した店舗の軒下に立った。
スマートフォンの画面には、自分を批判する記事が並んでいる。
《天才女優の裏の顔》
《被害女優が涙の告白》
《白峰凛花、芸能界追放へ》
行く場所はない。
頼れる相手もいない。
雨粒が風に吹き込まれ、凛花の髪と肩を濡らしていく。
その時、遠い記憶の中から、ひとつの声が蘇った。
『全部なくなって、行く場所がなくなったら俺のところへ来い』
九年前。
まだ何者でもなかった少年が、凛花に言った言葉。
凛花は夢を選び、その手を振り払った。
嫌われなければ別れられないと思い、彼の誇りを踏みにじるような言葉を並べた。
あなたといる時間が無駄だった。
未来のない人と一緒にはいられない。
二度と私の前に現れないで。
九鬼朔夜は、最後まで言い返さなかった。
ただ凛花を見つめ、あの言葉だけを残した。
濡れた指で検索画面を開く。
九鬼朔夜。
名前を入力しただけで、いくつもの記事が表示された。
その最上段にあったのは、KUKIホールディングス代表取締役会長就任を報じる記事だった。
警備、金融、不動産、映像配信。
表の事業だけでも巨大な影響力を持ち、裏社会との関係まで囁かれる男。
記事の写真に写る朔夜は、凛花の知る青年とは別人のようだった。
黒いスーツに身を包み、大勢の人間を従えている。凛花へ向けられていた不器用な優しさは、その冷たい目のどこにも残っていない。
会えば、追い返されるかもしれない。
九年前の言葉など忘れているかもしれない。
それでも、ほかに行ける場所はなかった。
凛花は記事に掲載されている本社ビルの住所を確認した。
建物があるのは、黒い車が頻繁に出入りすると噂される歓楽街の中心だった。
凛花は通りへ出て、走ってきたタクシーへ手を上げる。
後部座席へ乗り込み、震える声で住所を告げた。
「この住所までお願いします」
車が雨の街を走り出す。
九年ぶりに、凛花は自ら九鬼朔夜のもとへ向かった。
『灰の鳥』の撮影開始から10日目の夜、凛花たちは郊外の古い公共施設へ入った。かつて町役場の分庁舎だった建物で、廊下には町の広報紙や古びた木製家具が残されている。壁の塗装は剥がれ、歩くたびに床板が低く軋んだ。時間の染みついた空気が、『灰の鳥』の故郷の閉塞感によく似ていた。 撮影するのは、梓が妹の死に関する資料を探し、閉鎖された町役場へ忍び込む場面だった。9年前の事件記録は処分されたことになっているが、当時の職員が写しを残した可能性がある。梓は深夜の建物へ一人で入り、懐中電灯だけを頼りに書庫を探す。町が何を隠したのか、初めて証拠へ近づく重要な場面だった。 撮影前の安全確認には、通常より時間がかけられていた。消防設備と避難経路を確かめ、照明用の電源も施設内の回線を避けて外部から引いている。梓が使う懐中電灯も発熱の少ない撮影用で、火気を扱う予定はなかった。警備員は建物の内外に配置され、不要な部屋へは入らないよう全員へ伝えられていた。 日付が変わっても、撮影は終わらなかった。凛花は薄暗い廊下を歩き、壁の案内板を照らして書庫へ入る。埃を被った箱を開き、背表紙を確かめて目的の年度を探していく。台詞がないからこそ、日下部は歩幅や呼吸、僅かな視線のずれにも撮り直しを命じた。「今のは入った瞬間に棚を見すぎだ。梓は書庫の配置を知らない。先に出口を確認しろ」「分かりました」 凛花は開始位置へ戻り、もう一度廊下を進んだ。撮り直すたびに、建物へ忍び込んだ梓の緊張へ感情を戻す。肩の角度や懐中電灯を握る力まで変え、日下部の求める不安を探った。6度目を終えたところで、ようやく日下部がモニターから顔を上げた。「30分休憩。次は資料を見つけるところから撮る」 スタッフたちは機材を残し、休憩のため建物の外へ出ていった。暖房がないため、外の車両で温かい飲み物を受け取ることになっている。凛花は書庫の机へ台本を広げ、次の場面を確認した。梓が記録の何を疑い、どこで信じるのか、まだ自分の中で定まりきっていなかった。 蒼真は次の場面まで待機するため、廊下を挟んだ別室で台本を読んでいた。建物内には機材を守るスタッフと警備員も数人残っているため、凛花一人になるわけではない。外から吹き込む風が窓枠を鳴らし、古い紙と埃の匂いが書庫へ籠もっていた。凛花は台本の一頁をめくったところで、そこへ別の臭いが混じっ
主演選考の日、凛花を乗せた車は開始予定時刻の一時間前に撮影所へ着いた。正門の外には報道陣らしき人影がいたが、九鬼側の警備車両が間へ入り、地下の搬入口まで誘導する。降車した凛花を待っていたのは、黒いスーツの警備員と双方の弁護士だった。役を演じに来たはずなのに、法廷へ立たされるような息苦しさが朝の空気に混じっていた。 選考が行われる第3撮影所には、普段より多くの人間が集まっていた。制作責任者、配給会社、真白の起用を条件に出資を申し出た企業と法務担当者が、カメラの外側へ並んでいる。双方の弁護士は、選考中の映像を宣伝や報道に利用しないという合意書を確認していた。九鬼側の人間は出入口に立ち、持ち込まれる端末を一台ずつ調べている。 日下部は人の増えた現場を見渡し、朝から不機嫌だった。女優の力量を見るだけなら、自分と必要なスタッフだけで足りる。商品を選ぶように二人を見比べる人間など、本来なら追い出していたはずだった。それでも資金がなければ『灰の鳥』は完成せず、公開処刑じみた選考を受け入れるしかなかった。「余計な口を挟むな。選ぶのは俺だ」 日下部が制作責任者へ釘を刺したところで、撮影所の扉が開いた。最初に入ってきたのは、真白の所属事務所のスタッフと弁護士だった。その間を守られるように歩く真白は、淡い水色のワンピースを着て、化粧もほとんどしていない。目元をわずかに赤く見せた姿は、連日報道されてきた、先輩女優から傷つけられた若手女優の印象そのものだった。 ホテルの廊下で見た赤い痕は、もう頬に残っていなかった。それでも真白は物音へ怯えるように肩を縮め、事務所の人間から離れようとしない。凛花と目が合うと瞳が揺れたが、すぐに視線を落とした。その姿を見ていると、凛花の方が彼女を追い詰めているような錯覚さえ生まれた。「久しぶり」 凛花は数歩の距離を残したまま、できる限り静かに声をかけた。真白の唇がわずかに動き、伏せられていた睫毛が上がりかける。だが声が返るより早く、事務所スタッフの男が二人の間へ割って入った。片腕で真白を背後へ庇いながら、凛花へ向ける目には露骨な警戒があった。「天音に直接話しかけないでください」「挨拶をしただけです」「接触そのものを控えていただくよう、以前からお願いしているはずです」 周囲の視線が集まり始めたことに気づき、凛花は一歩下がった。ここで反論す
『灰の鳥』の撮影開始から、一週間が過ぎた。 早朝の撮影現場には、まだすべての出演者が揃っていなかった。 スタッフたちは機材を運び、前日に撮影した場面から変更された小道具を並べている。 凛花は共用の控室で衣装へ着替え、台本を持って撮影場所へ向かっていた。 建物へ入る前に、怒鳴り声が聞こえた。「今さら主演を替えろという話を、受け入れられるわけがないだろう!」 日下部の声だった。 普段から言葉は厳しい。 だが、ここまで感情を露わにする姿は珍しかった。 凛花は足を止めた。 撮影に使う古い建物の一角で、日下部と制作責任者が向かい合っている。 扉は開いたままだった。 周囲にスタッフがいるにもかかわらず、二人とも声を抑えようとしていない。「こちらも、簡単に主演を替えたいと言っているわけではありません」 制作責任者が書類を持ったまま答える。「ですが、新しい出資者候補が見つかったんです。この条件を逃せば、撮影を最後まで続けられる保証がありません」「金なら九鬼の会社が出した」「不足しています」 制作責任者の声も強くなる。「当初の予算なら足りました。ですが、撮影所の変更、警備費用、情報管理、新しいロケ地の使用料。白峰さんへの攻撃に備えるたび、予定になかった費用が増えています」 撮影場所を非公開にしたことで、移動や宿泊の手配も複雑になった。 ロケ地の管理者には、通常以上の警備と秘密保持を求めなければならない。 盗撮を防ぐための人員。 出演者たちを別々に運ぶ車。 撮影データを管理する設備。 凛花を守り、作品を外へ流出させないために、予算は膨らみ続けていた。「九鬼側へ追加出資を求めればいい」「すでに相当額を負担しています。制作費を一社へ依存すれば、今度は九鬼会長が作品へ介入しているという報道を否定できなくなる」「今のところ、あの男は何も口を出していない」「今後もそうだという保証はありません」「それで、新しい出資者の条件は何だ」 日下部の問いに、制作責任者は一度周囲を見た。 凛花と目が合う。 明らかに言いにくそうな表情になった。「続けてください」 凛花は自分から近づいた。「私に関係する話でしょう」 制作責任者は書類を握り直した。「出資の条件は、主演の変更です」 周囲のスタッフの動きが止まる。「白峰さんを降板させ、
『灰の鳥』の撮影が始まってから、凛花はほとんど眠れていなかった。 身体は疲れている。 早朝から現場へ入り、一つの場面を何度も撮り直し、夜には翌日の台本を確認する。 ベッドへ入る頃には、目を開けていることさえ辛い。 それでも、眠りへ落ちることができなかった。 目を閉じると、黒い車へ押し込まれた時の感覚が蘇る。 後ろから口元を塞がれた。 腕を捻り上げられた。 車の座席へ頭から押し込まれ、扉が閉まった。 逃げ道を失った瞬間の音まで、鮮明に聞こえる。 顔へ液体を浴びせられた時の冷たさ。 酸かもしれないと考え、身体が動かなくなった恐怖。 黒い染料に汚された自分の顔。 自宅マンションの壁に書かれていた言葉。 ――人殺し。 ――消えろ。 ――二度と演じるな。 そして、ホテルの廊下で泣いていた天音真白。 凛花から暴力を受けたと訴えた顔。 何もしていない。 そう言い聞かせても、真白の泣き声だけが耳から離れなかった。 誰かが意図的に演じさせたのか。 真白自身が嘘をついているのか。 それとも、凛花の知らないところで本当に何かが起きていたのか。 眠りに落ちても、数十分で目が覚める。 時計を見る。 一時十二分。 一時四十七分。 二時三分。 目覚ましを設定しているにもかかわらず、翌日の撮影へ遅れることが怖かった。 凛花が寝坊すれば、現場へ入る時間が遅れる。 撮影が止まる。 また、白峰凛花が全員へ迷惑をかけたと書かれる。 時計を確認する。 まだ二時を過ぎたばかりだった。 九鬼邸の客室は、静かすぎた。 都心から離れた広大な敷地。 外部の音を遮る厚い壁と窓。 高い塀の外を走る車の音さえ聞こえない。 廊下を歩く使用人も、夜間は足音を立てない。 安全なはずの場所だった。 屋敷の周囲には警備員が配置され、監視カメラがすべての出入口を見張っている。 凛花を拉致した男たちも、色水を浴びせた女も、ここへは近づけない。 それでも凛花には、逃げ道のない箱のように感じられた。 何かが起きても、塀を越えて逃げることはできない。 警備員が守る門は、凛花を外へ出さないための門でもある。 目を閉じようとした時、廊下から小さな物音が聞こえた。 凛花は息を止めた。 布が擦れるような音。 続いて、足音。 近づいてくる。 隣の部
『灰の鳥』の撮影二日目。 撮影場所は、郊外にある古い民家だった。 長く空き家になっており、撮影終了後には取り壊されることが決まっている。 塗装の剥げた木製の門。 雑草に覆われた庭。 雨風で色の変わった外壁。 玄関の引き戸には細かな傷が残り、開けるたびに鈍い音がする。 九年間、誰にも手入れされなかった佐伯梓の実家として、そのまま使われることになっていた。 撮影場所は、出演者と主要スタッフにしか知らされていない。 移動経路も当日の朝まで伏せられていた。 九鬼側の警備員たちは、民家の周囲だけでなく、近くの道路や空き地にも配置されている。 撮影区域の外からカメラを向けている者がいないか、何度も確認が行われた。 それでも、凛花は落ち着かなかった。 昨日、駅で撮影された盗撮映像。 何度も歩き直す姿だけが切り取られ、失敗を繰り返して現場を止める女優として拡散された。 最終的に採用された一回は、世間へ届いていない。 失敗だけが、白峰凛花の現在として見られている。「準備できたか」 日下部の声が飛ぶ。「はい」 凛花は梓の衣装をまとい、玄関前へ立った。 この日、最初に撮影するのは、梓が亡くなった母親の家へ入る場面だった。 九年ぶりに戻った実家。 母親の葬儀には間に合わなかった。 家の中には、遺品を整理する者もいない。 梓は一人で玄関を開け、自分を最後まで信じなかった母親の残したものと向き合う。 撮影前に、日下部から動きを指定されている。 引き戸を開ける。 家の中を見る。 一歩入り、靴を脱ぐ。 廊下へ上がり、台所の手前で止まる。 床には、俳優の立ち位置を示す小さな目印が貼られていた。 カメラの画角と照明、焦点を合わせるために必要な印だった。 一度で成功させなければならない。 凛花はそう考えていた。 また撮り直しが増えれば、誰かに映像を盗まれるかもしれない。 撮影場所を隠しても、スタッフの中に情報を流している人間がいないとは限らない。 失敗する姿を見せなければ、切り取られることもない。「本番!」 助監督の声が響く。 カメラが回り始めた。 凛花は引き戸へ手をかける。 建てつけの悪い戸を、指定された速度で開ける。 家の中へ視線を向ける。 一歩入る。 靴を脱ぐ。 廊下へ上がる。 床の小さな目印を踏み、
映画『灰の鳥』の撮影初日。 凛花が九鬼邸を出た時、空はまだ暗かった。 正門の前には、複数の黒い車が並んでいる。 先日の襲撃を受け、警備は倍に増やされていた。凛花の乗る車を前後から挟むように警護車両が走り、撮影機材を運搬する車とは別の経路で現場へ向かう。 目的地は、都心から離れた郊外の町だった。 古い木造住宅や個人商店が残り、中心部から外れた場所には小さな駅がある。 改装を重ねながら使われてきた駅舎には、何十年も前の面影が残っていた。 錆びた鉄柱。 塗装の剥がれた木製ベンチ。 低いホーム。 地方の小さな町を舞台とする『灰の鳥』には、よく似合う場所だった。 凛花が車を降りると、先に到着していたスタッフたちが一斉に振り返った。 車から次々と警備員が降りてくる。 黒いスーツを着た男たちは、駅の入口、ホームへ続く通路、撮影区域の外側へ分かれた。 スタッフの会話が小さくなる。「こんなに必要なんですか」 制作進行が蓮司へ尋ねた。「先日の件を受けて、警備体制を変更しました」「撮影中、一般の利用者も通ります。あまり目立つと、かえって混乱するかもしれません」「一般の方への対応は、こちらで行います」「でも……」「カメラの視界に入らなければ、何人連れてきても構わない」 日下部が会話を遮った。 現場用の上着を着て、すでにホームの状態を確認している。「照明と機材の邪魔だけはするな。画面に黒服が一人でも映ったら撮り直しだ」「承知しています」 蓮司は警備責任者へ短く指示を出した。 男たちはさらに距離を取り、目立たない位置へ移動する。「白峰、衣装へ着替えろ」「はい」 駅舎の一室が、女性出演者用の共用控室として用意されていた。 凛花は梓の衣装へ着替える。 色褪せたシャツ。 使い込まれた上着。 黒いパンツ。 九年間の生活が染み込んだように加工された旅行鞄。 化粧はカメラテストの時と同じく、ほとんど施されない。 腕に残る痣も隠さなかった。「顔に残っていた染料は、もう分かりませんね」 メイク担当者が生え際を確認する。「耳の後ろには、まだ少し残っています」「この角度なら映らないと思います。日下部監督へ確認しますか」「そのままでいい」 背後から日下部の声が飛ぶ。「今日は正面と横顔が中心だ。見えたなら見えたで使う」 日下